人はなんのために生きるのか。
まず前提として、生まれてきたことには、たぶん何の意味もないのだと思う。
そこに意味を見出そうと頑張っても、ないものはない。
前提が誤っている議論からは、結局なにも生まれない。
それでも、私たちはそれを気にしてしまう。
「意味」を探そうとしてしまう。
頭が良くなりすぎた人間の、ある種の罪のようなものだ。
イエス・キリストはこれを原罪と呼んだのだろうと、ふと思う。
人のために生きるのも良い。
自分のために生きると決めるのも良い。
ただし、人のために生きようとしたとき、
もし人から不要とされたらどうするのか?
その瞬間、土台は簡単に崩れてしまう。
一方で、自分のためだけに生きると決めれば、今度は孤立する。
「自分のため」という言葉は強いようで意外と脆く、支えがなくなったときに揺らぎやすい。
どちらか一方に寄り切ると、どこかで破綻するのだと思う。
結局はバランスが重要なのだと思った。
意味を求めすぎて苦しくなるのも、
誰かに必要とされることで自分の価値を確かめようとするのも、
全部、どこか一箇所に比重が寄ってしまっている証拠だ。
意味が先に与えられていないのだとしたら、
私たちができるのは「どう意味づけるか」を選び続けることだけだ。
その意味づけは、他者と自分のどちらかだけで完結するものではない。
揺れながら、傾きながら、それでも倒れないところを探していく。
それが生きるという行為に一番近いのではないかと、最近思う。
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